無功徳・廓然無聖・不識とは?

菩提達磨(ぼだいだるま)は、6世紀初頭に禅をインドから中国へ伝えた高僧です。

中国は南北朝時代で梁(りょう)の国が栄え、武帝(ぶてい)という王が国を治めていました。

武帝は、仏法に深く帰依し、世間から「仏心天子(ぶっしんてんし)」と崇められていました。

それだけに武帝は達磨の渡来を大いに喜び、達磨を迎え、質問しました。

「朕、即位以来、寺を作り、経を写し、僧を度す。何の功徳かある。」

「私は、これまでたくさんの寺を建立し、僧侶を育ててきた。私には将来どれだけの

幸福がもたらされるか?」と。

達磨は、「無功徳(むくどく)」と突っぱねました。

武帝の行いのどれもこれも果報を受けられるものではない。

功徳欲しさに行う善行が何の役に立つであろうか…との答えです。

望みの答えを聞き得なかった武帝は問いを重ねます。

「禅の真髄とはいったいどのようなものか?」と。

それに対して達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)」と喝破しました。

「廓然」とは、からりと開けた何ものにも捉われない無心の境地です。

そこには、聖なるものも凡なるものも、何も比べるものはないと言い放ちました。

「聖なるものが無いと言われた武帝は、どうしても納得がいきません。

それで達磨に対して「では私の前にいるお前は何者だ?」と問いました。

達磨は一言、答えます。「不識(ふしき)」と。

「不識」とは「そんなものわからない」という意味です。

達磨が「不識」と言ったのは、武帝の「執着」を捨てさせるためでした。

人間は、どうしても聖と凡、生と死、有か無か、善か悪か、是か非か、損か得か

といった相対する2つの思考に捉われて生きています。

禅では、相対的な思慮分別を嫌います。

この相対的な思慮分別を完全に捨て去ってこそ、禅でいうところの「不識」を

体得することができるのです。

禅ではそれを見性(悟り)といいます。


≪茶掛 不識◆相国寺派管長 大津櫪堂 老大師≫

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