日本臨済宗の今日の師家方は、「応・燈・関の一系」といわれるように
すべて大燈国師の法孫によって占められています。
大応国師が中国に渡って虚堂禅師の法を伝えて、
それを大燈国師(大徳寺開山)に伝えられ、
それが関山国師(妙心寺開山)に伝えられました。
この流れを「応・燈・関」といいます。
大燈国師は、27歳にして師の大応国師のもとで大悟します。
大応国師の没後、大燈国師は大応の遺命にしたがい
20年あまりを人に隠れて京都の五条大橋の下の乞食の群れに交って
自分の得たさとりをさらに点検します。
これを「悟後の修行」または「聖胎長養」といいます。
悟後の修行 聖胎長養とは、さとりを得ても、そのさとりの境地に止まることなく
さらに修行を積むことをいいます。
花園天皇はある日、大燈国師をお召しになりました。
使いの者は、国師がただ道服を着て、一重の座敷を隔ててお話しするように
伝えましたが、大燈国師は袈裟を着けて天皇と対座することを要求しました。
天皇はそれを許されまたが、相見のときに「仏法不思議 王法と対座す」
といわれました。
国師はただちにこれに応じて「王法不思議 仏法と対座す」と答えました。
このことは、国師の仏法に対する満々たる自負のほどを示しています。
これが、大燈国師 宗峰妙超禅師の道風であり「精神界の王者の風格」であります。
≪虚堂秋風の偈◆大燈国師 宗峰妙超禅師≫