観音菩薩は、この世にあるものすべてが、どうしてそのように存在するのか、その存在の原理を見きわめようと、深遠な観察の修行を積み、ついにその修行を究めた。
そして、一切の存在はすべて「空」であるとの真理をさとって、苦しみの原因を解決することができた。
観音菩薩は、舎利子に向かい、この空について説法される。
舎利子よ、あなたやわたしの目に見える身体(色)と目に見えない心、それと存在の原理の空とは、けっして異質ではないのだ。
なぜなら、空の原理に基づいて身体や心があるのだから、空と色や心とは、異質であるわけがない。
さらに言おう。
目に見える色そのままが、実は目に見えない空の真理の相(すがた)に外ならないのだ。
空の真理とは、まず、すべてはつねに移り変わり、永遠な存在は一つもなく、すべて「無常の存在」である真実。
次に、すべての存在は、そのものだけで他と孤立して存在できない、みな他とかかわりあって、はじめて存在が可能な「無我の存在」である真実。
この二つの真実を総括するのが、空の真理に外ならない。
この真理は、身体だけではない。
心に関する現象すべてに通じている真理である。
一切の物ごとや現象を生ずる空の真理は、永遠で、不生不滅で、相対的な認識を超えるから、この真理を拒むものはない。
このように、空の真理をさとることができる。
さとりは、深遠な観察の智慧によって得られるから、そこに執われるものは何もない。
執われないから恐怖もない。
空の真理を知り、一切の誤った認識を除いて、心身の安らぎを得よう。
このことは私に限らない。
いつの世でも、誰でも空の真理をさとって安らぎをえられるのだ。
故に、深遠な観察の智慧は、生きた真実の理(ことば)である。
「渡ろうよ 渡ろうよ 心と心をつないで 迷いの河を渡ろうよ
かの岸こそ永遠(とわ)のさとりである
渡ろうよ 渡ろうよ 心と心をつないで
執われのない迷いの河を渡って かの岸に行こうよ
行くことができるのだから 行こうよ」
松原泰道訳